講師のご紹介
講師料金
- ※講演料金はあくまでも目安です。
- ※講演料金のグループ分けは自治体で無料催事、講師起点より近郊、日帰りの基本料金です。
- 日程などにより変動があります。
- Aグループ:10万円~30万円
- Bグループ:30万円~50万円
- Cグループ:50万円~80万円
- Dグループ:80万円~100万円
- Eグループ:100万円~130万円
- Fグループ:130万円~160万円
- Gグループ:160万円~
- Hグループ:要相談
経歴
1932年青森市に生まれる。1964年イタリア・キロメーターランセに日本人として初めて
参加、時速172.084キロの当時の世界新記録樹立。1966年富士山直滑降。
1970年エベレスト・サウスコル8,000m世界最高地点スキー滑降(ギネス認定)を成し遂げ、
その記録映画 [THE MAN WHO SKIED DOWN EVEREST] はアカデミー賞を受賞。
1985年世界七大陸最高峰のスキー滑降を完全達成。2003年次男(豪太)とともに
エベレスト登頂、当時の世界最高年齢登頂記録(70歳7ヶ月)樹立。2008年、75歳2度目、
2013年80歳にて3度目のエベレスト登頂〔世界最高年齢登頂記録更新〕を果たす。
アドベンチャー・スキーヤーとしてだけでなく、全国に1万人以上生徒がいる広域通信制高校、
クラーク記念国際高等学校の校長も務める。記録映画、写真集、著書多数。
1956年 北海道大学獣医学部卒業。
同大学卒業後、同大学獣医学部薬理学教室教官助手となる
1962年 アメリカ世界プロスキー協会(IPSRA)の会員となる。アメリカ・プロスキーレースで活躍
1964年 イタリア・キロメーターランセに日本人として初めて参加。
時速172.084の世界新記録樹立
1966年 富士山直滑降(スキー界で初のパラシュートブレーキを使用)
映画[富士山直滑降]
*オーストラリア大陸最高峰 Mt. コジアスコ(2,245m) 滑降
ニュージーランド政府より招待、タスマン氷河等を滑降
1967年 *北米大陸最高峰 Mt.マッキンレー(アラスカ 6,194m)を滑降
ニュージーランド・タスマン氷河滑降 映画 [スキー野郎氷河大滑降]
1968年 メキシコ最高峰、ポポカテペトルの初滑降樹立
1969年 南米パイネ山の初滑降樹立
日本エベレストスキー探検隊を編成。隊長としてエベレスト偵察
1970年 *アジア大陸最高峰 Mt.エベレスト、サウスコル8,000m世界最高地点
スキー滑降(ギネスブックに載る) 映画 [エベレスト大滑降]
1971年 スペイン山岳会より招待。スペイン・スポーツ英雄大賞受賞
スペイン山岳会名誉会員となる。
イタリア山岳会より招待。世界山岳探検会議の特別会員となる
カナダ、トルード首相より家族6名招待。カナダの山々を滑る
1972年 第1回アラスカ少年少女探検学校校長としてアラスカへ(以後 1984年まで毎年8月)
1973年 青森大学教授となる。自然スポーツ研究所 設立
1974年 フランス政府観光局より招待。フランスアルプスのスキー場映画製作
総理府青少年問題審議会委員となる
「エベレストの回想」のため、父・敬三氏をはじめ三浦一家ヒマラヤ遠征
1976年 [THE MAN WHO SKIED DOWN EVEREST] 長編記録映画部門で
アカデミー賞を受賞(各国語版に翻訳、現在も世界各国で放映されている)
アメリカ、ワシントン州名誉市民となる
1977年 南極でスキー滑降(南極大陸遠征記録映画でニューヨーク映画祭ゴールデンイーグル
大賞を受賞)
1978年 北極圏最高峰バーボーピーク(2,604m)滑降
1981年 アフリカ大陸最高峰 Mt.キリマンジャロ、タンザニア(5,895m)
親子3代での登頂及びスキー滑降に成功
1983年 南極大陸最高峰 Mt.ビンソン・マッシフ(5,140m) 登頂及びスキー滑降
1984年 フランス「国際探検映画祭」の審査委員。
さらに今までの功績を認められ、「冒険探検特別賞」を受賞
1985年 ヨーロッパ大陸最高峰 Mt.エルブルース、ソ連(5,633m)登頂及びスキー滑降
(家族で挑戦南米大陸最高峰 Mt.アコンカグア、アルゼンチン(6,959m)登頂及び
スキー滑降。長男、雄太氏との親子チャレンジに成功)
この成功により、世界七大陸最高峰のスキー滑降(人類初)を完全達成した。
1987年 日本プロスキー連盟設立、会長となる
1990年 (社)日本職業スキー教師協会(SIA)の顧問に就任
日本プロモーグルスキー協会の会長に就任
1991年 東京にて「ザ・マウンテンサミット」を大会実行委員長として開催。
大会開催中には皇太子殿下並びに秋篠宮殿下の御臨席をいただいた。
1997年 NHK BS「世界我が心の旅」ヒマラヤ エベレストベースキャンプ
2000年 ヒマラヤ ゴーキョピーク(5,360m) をクラーク国際高等学校の高校生5名を連れて
登頂
2001年 4月 ヒマラヤメラピーク(6,476m)へ登頂及び山頂直下よりスキー滑降。また遠征
に同行したクラーク国際高等学校の大矢洋氏(17歳)は同山峰と日本における最
高標高登山の最年少記録を樹立。
2001年11月 ヒマラヤ アイランドピーク(6,186m)登頂
2002年 4月 ヒマラヤ パルチャモ山(6,187m)登頂
2002年 5月 世界第6座 ヒマラヤ チョー・オユー山(8,201m)を次男豪太とともに登頂。
当時の8000メートル峰登頂世界最高年齢記録(69歳6ヶ月)。
2003年5月22日 世界最高峰エベレスト山(8,848m)、次男・豪太氏とともに登頂。当時のエベレス
ト登頂最高年齢記録(70歳223日)及び、日本人初親子同時登頂記録を樹立。
2003年 上記功労により:青森名誉県民賞、北海道功労賞、内閣総理大臣表彰、
フランス政府スポーツ青少年功労賞金賞、ネパール王国叙勲 他 - 受賞
2004年3月 父(敬三氏)100歳、子供たち、及び孫(里緒5歳、雄輝1歳)の100歳から1歳の
親子孫でアメリカのロッキー山脈をスキー滑降
2006年5月 次男、豪太氏とともに世界第14座 ヒマラヤ シシャパンマ山(8,027m)へ遠征。
標高7,000メートルまで登攀し、2008年のエベレスト(チョモランマ)挑戦へ
向けてのコンディショニング・トレーニングを行う。
12月 心房細動・不整脈治療の為 土浦協同病院にてカテーテル・アブレーション手術
2007年6月 2度目のカテーテル・アブレーション手術
2008年5月26日 2度目のエベレスト(8,848m)登頂 (75歳7ヶ月)。
2009年2月 札幌のテイネスキー場にて骨盤&大腿骨付根骨折。全治6ヶ月の診断となるも
2ヵ月後に退院。リハビリを経て復帰する。
2011年11月 怪我の復帰後初となるヒマラヤ遠征 メラピーク(6,476m)登頂。
2012年11月 ヒマラヤ・ロブチェイースト遠征帰国後3度目のカテーテルアブレーション手術
2013年1月 再発した不整脈を抑えるため、4度目のカテーテルアブレーション手術を実施
5月23日 世界最高齢 80歳224日でエベレスト登頂
(ギネス・ワールドレコード認定 5月30日)
6月6日 日本国政府より「三浦雄一郎記念日本冒険家大賞」が創設される
7月 ~ 他 各自治体、団体より功労賞及び栄誉賞の受賞
2019年1月 不整脈治療を続け86歳で南米最高峰アコンカグア(6961m)でのスキー滑降を
目指したが、6000メートル地点でドクターストップにより下山。
帰還後、新たな挑戦へ向けて準備を開始する。
講演テーマ
『「攻める健康法」~ 80歳エベレスト登頂』
『高く遠い夢 ふたたび~80歳エベレスト登頂~』
『「歩く技術」 エベレストへ続く歩く健康法』
『生きがい~夢諦めず、夢高く、夢 いつか頂へ 80歳のエベレスト挑戦』
『人生はいつも「今から」~一歩一歩登りつづければ頂上に立てる』
『親子3代モンブラン滑走(父 三浦敬三 99歳)』
『エベレスト 親子同時登頂と支えた家族』
『ファミリーチャレンジ』
『世界最高峰(エベレスト)から見た地球~未来のこどもたちへ』
『三浦家の「いきいき長生き健康法」』
『世界最高峰を目指すための「超健康法」』
『高齢化社会におけるチャレンジと夢』
『夢に勇気を』
『諦めない一歩づつ~オンリー・ワンを目指せ~』
『挑戦する心と統率力』
『挑戦・困難を如何に克服するか』
『我が人生の挑戦』
『冒険への挑戦と子育て~冒険教育~』
- 受賞
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プロスポーツ大賞殊勲賞、スペイン山岳会名誉会員、アカデミー賞長編記録映画部門、
世界山岳探検会議特別会員、ワシントン州名誉市民、国際探検映画祭・冒険探検特別賞、
ニューヨーク映画祭ゴールデンイーグル大賞(南極)、内閣総理大臣表彰、
フランス政府スポーツ青少年功労賞金賞、スープラバラ・ゴルカ・ダクシナ・バフ勲章(ネパール政府)、青森名誉市民、弘前市民栄誉賞、青森名誉市民特別功労賞、青森県民栄誉大賞、深川市民栄誉賞、日本スポーツグランプリ賞、北海道民栄誉賞、東京都名誉都民 他
- 書籍
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「やめる勇気、やり遂げる心」 (PHP研究所)2016年
「攻める健康法」(双葉社新書)2015年
「高く遠い夢 ふたたび ~80歳エベレスト登頂~」(双葉社)2013年
「人生はいつも「今から」」(ロングセラーズ)2012年
「三浦雄一郎の「歩く技術」60歳からの街歩き・山歩き」(講談社)2011年 ほか多数